(改)アラフィフランナーの独り言

アラフィフ親父ランナーのブログ

小・中学生時代のこと(自分語りその1)

今日は実家に帰省(練馬なのでそんな大袈裟なものでもないが)しているのだが、親父の写真を見て子供の頃を思い出したのだで自分語りをしてみる。

【小学生の時】
小学生の時は、取り立てて足が速いわけでもなかったが、野球が好きで、よく学校の休み時間や帰宅後に仲間とカラーボールとプラバットで野球ごっこ(?)をやっていた。大して上手いわけでもなかったのだが、野球選手に憧れて何をとち狂ったか四年生の時に地元の少年軟式野球チームに入った。(これは後で後悔することとなるが)

同級生は20~30人位いた。現実は厳しく四年生の段階で、自分の才能のなさを痛感させられ、とても試合になんか出られそうもないことを悟った。

同級生は、ポツポツと辞めていき、卒業まで残ったのは10人くらいだった。自分も辞めたかったのだが、亡き父に「自分から入っておきながら途中で辞めるとは何事か!」と怒られ、モチベーションの上がらない状態で卒業まで続けることになったのである。
(この頃、毎週日曜日が苦痛で、土曜日の夜に「俺たちひょうきん族」を見終わってエンディングテーマが流れると気持ちがどんよりとしたことをたまに思い出す)

また、六年生の頃、ガンダムのプラモデルが流行って、日曜日とかに早い者勝ち販売がデパートや近所のおもちゃやで行われていたが、当然のごとく、野球の練習があって並ぶことができないので自分の浅はかな行動(野球チームに入ったこと)を恨めしく思ったものである。(この時、中学では絶対に野球部には入らないと誓ったのである。野球が嫌いというわけではなく、全国大会に行くような中学では自分には無理ゲーと思ったからである。)

そんなある日ののこと、自分と同じ補欠にもなれないチームメイトと他チームとの試合会場で自分のチームを応援していると、対戦相手のピッチャーの球速がアンダースローにも関わらす、うちのチームのエースの球速よりも遥かに速く、衝撃を受けたことがあった。(その投手は後に、中学校で同級生となる)
まあ、こんな自分でしたが、六年生の最後の大会で、最後まで残っていた補欠未満の同級生(自分も含む)は、一打席と守備を1イニングだけだが試合に出してもらった。(打席は三振、守備は内野フライをアウトにする機会があった)

こうして小学校での一番の苦痛から解放されたのであった。(この時、野球は遊びでやるか、観戦するだけにしようと決意したのであった)

中学へ続く